謹賀新年

新年あけましておめでとうございます。本来なら1月1日に公開するような記事のタイトルだが、そんな時間を守れる奴なら留年していないと言うことで。

 

さて、ブログを書けと言われて筆を取ったは良いものの今更去年の振り返りをするのも時期を逸した感がある。というより怠惰が過ぎたあまり振り返るような事がないのだが。

そこで今回は冬コミを見ていてふと思いついた私の疑問について書いていきたい。

 

私の疑問、それは絵が上手な同人作家ほど寝取られもの(以下ntr)しか描けなくなるのではないかということだ。

 

常日頃からfanzaに住み着いている諸兄には聞くまでもないかもしれないが、左藤空気テラスMCと言った作者の名前を聞いたことはないだろうか?

 

彼らは素晴らしいイラストを描く一方で、清々しいほどntrしか描かない。胸を熱くしてサンプルを開いたのに萎びてしまった事が誰しもあるだろう。

他の作家の名前をあげだすとキリが無いのだが、ようはntrを描く人は総じて絵が上手という事だ。

 

だがこれはおかしいと言わざるを得ないだろう。何故なら普通ntrでは抜けないからだ。

 

人間の本性は純愛にある(性愛説)以上ntrなどいくら描こうが売れないはずである。

ましてや絵が上手な彼らはntrを描くインセンティブに欠けるはずであり矛盾が生じている。だからこそ、描かないのではく描けなくなっているのではないかと思うのである。

 

では何故絵が上手な人ほどntrを描くのだろうか?

その答えは、「物の価値はその希少性、つまり他との差異に由来する」という資本主義の原点にある。

 

かつてヴェニスの商人が香辛料で莫大な財をなしたように、人間は無いものにこそ価値を認める生き物である。

そこで絵が上手な彼らが合理性に従って皆純愛ばかり描いてしまった場合、我々はそれらに価値を認めないという非合理な結果となってしまうのである。ntrを書くことはむしろ、他者との差異を設け希少性を生み出すという経済的合理性に従った結果であると言える。

 

だが果たして差異を作るという事は純愛とntrという関係でしか成り立たないのだろうか?

 

人間が誰しも個性を持つように、上手な絵にもそれぞれ画風というものが存在する。一口に上手といっても、我々はその中に選好を持っているのである。

 

つまり例え上手な人が純愛ものをこぞって書いたとしても、消費者は「どれも同じだから」と価値を下げるのではなく、その中で画風という差異から価値をつけるだろうという事だ。

 

だからこそ、私はあらゆる絵師に純愛を描いてもらいたい。たとえntrを書かなくなったとしても、あなたの作品は価値あるものなのだから。

 

reference

左藤空気さん https://twitter.com/patrietta

テラスMCさん https://twitter.com/terasumc