左右の論理、あるいは文系の悲哀

文系は数学が出来ないから論理的に考えられないという言説がある。数学を学んだ事がある人ほど、どれほど数学で直感がものを言うかを知っていると思うが(極端だがラマヌジャンを例とする)私はずっとこのような言説は迷信だと思ってきた。

そもそも論理的とはなんなのだろうか。ここでは「論理的」という言葉を「主張を正しいデータによって無理なく裏づけている」と定義しておくが、ここで一つ疑問が生じる。

データから主張を導いて出来た文章と、結論ありきでデータを集めた文章を見分けることが出来るのだろうか。つまり論理には、データから主張を導くという右向きの論理と、主張を感覚的に立ててそれに適するデータを集める左向きの論理があるのではないかということだ。(データ←→主張)

 

これらの文章は外観的にはどちらも主張とデータから成り立っており、どちらも論理的と言えてしまうのではないだろうか。だから「論理的」という言葉が指すのは右向きの論理に限られるだろう。

数学が出来る人が論理的に考えられるということはまさにこの右向きの思考を出来るという点にあるように思える。

 

数学では問題を見ただけで感覚的に答えを立てられる事はほとんどない。(直感が降りてくるのは解き方に関してだけで答えではない。)与えられている条件から答えまで右向きに進むことはできても、答えから条件まで左向きに進むことは出来ないのである。

歴史や英語が暗記した知識を深く問われるのに対し、数学や物理はこのような右向きの思考で考えさせる問題ばかりを扱うからこそ、「論理的」思考力が涵養されるのではないだろうか。

 

我々文系の悲哀は、本来は我々の右向きの思考を鍛えるはずの科目である国語が、入試の場でさえ作問者との相性度チェックに堕してしまっていることだ。

なんとなくで答えを選び、なんとなく本文からそれっぽい文章を探す...このような作業の果てに、論理的な思考力のない文系が生まれてしまったのではないだろうか。

今日SNSには様々な主義主張が蔓延っている。それが正しいデータから飛躍なく因果付けられる主張であり、かつ結論ありきで出されたものではないのかを少しでも意識して見ることで、数学が出来ないのに論理的に考えられる人間になれるのかもしれない。